週末、いつもの鍼灸院へ。
道すがら、今は梅の咲きぶりに楽しませてもらっています。
柿や梅や木蓮や梅や桜などが、道端や畑の脇や町中の民家の庭先にごく自然に見かけられて、それが日常に季節の色彩を差し挟んでくれていたりするのですが、土地によってはもっと多かったり、あるいは少なかったり。
昔、柿が柿の木に生っているのを見たことがない人のという話を聞き、驚いたことがあります。
仕事と家の往復で、それでも途中目に入る筈の景色を見る余裕がなく、帰りの駅前付近の人の装いやショーウィンドウ等で季節の移り変わりを頃が見ていた頃があって、見たことがない人の視線というのは多分それに近いのかな…と考えたりもしました。
鄙びた土地ではなくとも、例えば花屋の軒先の一輪の花と視線が合うとか、色々と自然の息吹の拾い方はあるんだろうと思います。
環境によってその人の日常や当たり前が少しずつ、あるいはとても違っている。
「日常」とか「当たり前」ってなんだろう。
そう、最近特に見直す機会があります。
目を向ければ、すぐ傍にあって彩っている自然に気付ける筈なのに気付けないように、素朴でささやかなんだけれど、暮らしの中でとても大切なこと。
身近な人との「おはよう」帰ってきた時の「ただいま」、ご飯を頂く時の「いただきます」、そして「ありがとう」。
言葉の源にあるのは、自分から見た相手と、その関わりを意識すること、そして感謝、またそれを伝えること。
小さい頃って、道端のごみを拾うことを恥ずかしいとは思わなかった。
そういう気持ちを、いくつもいくつも忘れていたんだと思う。
そういうものを忘れて、違うことでいっぱいいっぱいになるほど何が大切だったのかな?
多分きっと、色々判りたかったし知りたくて、でも、それで周りが見えなくなってしまった。
いったい何の為に判りたかったのかなと思います。本末転倒だと思います。
もう無心な子供ではいられないけれど、いくつになっても守るべき大切なものは変わらなくて、それを守る為に色んなことを学んだりしたし、学んだことも、きっと守るべき大切なものがあってはじめて生かされるんだろうな…と。
そういうものをこれからどんどん取り戻していきたい。
そして、子供の頃に教えられたことが当たり前だと思えるように育てられたことに感謝しなくてはいけないですね。
鍼灸院の帰りに買ったラナンキュラスが元気です。
道すがら、今は梅の咲きぶりに楽しませてもらっています。
柿や梅や木蓮や梅や桜などが、道端や畑の脇や町中の民家の庭先にごく自然に見かけられて、それが日常に季節の色彩を差し挟んでくれていたりするのですが、土地によってはもっと多かったり、あるいは少なかったり。
昔、柿が柿の木に生っているのを見たことがない人のという話を聞き、驚いたことがあります。
仕事と家の往復で、それでも途中目に入る筈の景色を見る余裕がなく、帰りの駅前付近の人の装いやショーウィンドウ等で季節の移り変わりを頃が見ていた頃があって、見たことがない人の視線というのは多分それに近いのかな…と考えたりもしました。
鄙びた土地ではなくとも、例えば花屋の軒先の一輪の花と視線が合うとか、色々と自然の息吹の拾い方はあるんだろうと思います。
環境によってその人の日常や当たり前が少しずつ、あるいはとても違っている。
「日常」とか「当たり前」ってなんだろう。
そう、最近特に見直す機会があります。
目を向ければ、すぐ傍にあって彩っている自然に気付ける筈なのに気付けないように、素朴でささやかなんだけれど、暮らしの中でとても大切なこと。
身近な人との「おはよう」帰ってきた時の「ただいま」、ご飯を頂く時の「いただきます」、そして「ありがとう」。
言葉の源にあるのは、自分から見た相手と、その関わりを意識すること、そして感謝、またそれを伝えること。
小さい頃って、道端のごみを拾うことを恥ずかしいとは思わなかった。
そういう気持ちを、いくつもいくつも忘れていたんだと思う。
そういうものを忘れて、違うことでいっぱいいっぱいになるほど何が大切だったのかな?
多分きっと、色々判りたかったし知りたくて、でも、それで周りが見えなくなってしまった。
いったい何の為に判りたかったのかなと思います。本末転倒だと思います。
もう無心な子供ではいられないけれど、いくつになっても守るべき大切なものは変わらなくて、それを守る為に色んなことを学んだりしたし、学んだことも、きっと守るべき大切なものがあってはじめて生かされるんだろうな…と。
そういうものをこれからどんどん取り戻していきたい。
そして、子供の頃に教えられたことが当たり前だと思えるように育てられたことに感謝しなくてはいけないですね。
鍼灸院の帰りに買ったラナンキュラスが元気です。
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by luminy
| 2010-04-06 00:03
| 日々